3回目の合宿指導を終えて(2): 学生指揮について、指揮者の中二病

前回記事はこちら。

背景説明編につづいて少々「技術的」な話の入る記事です。

学生指揮であるということ

前回の背景説明でも書いたように、運営体制として学生指揮者を置いていること、また顧問の先生が演奏活動にほぼ介入しないということによって、メンバーの自主性が強く求められるスタイルになっていて、これは当然メンバーによって練習・合奏のやり方も違うということになります。当然毎年指揮者も変わるのですが、基本的に高校でオーケストラの指揮者の経験がある人なんて稀も稀でしょう。まあここまではよい。

今年は「すごく歳の離れたOB」が私のほかにもう一人いたのですが、今回これでたまたまよかったこととしては、(少なくとも合宿の時点では)指揮者が全く指揮者として機能していない、そのうえ合奏での「ダメ出し」はキツい、という感じで、私は到着するなりその暴走を止める役回りを任されました。

学生指揮であることのいいこととして、指揮者もメンバーの一員で、対等な立場で考え議論をして音楽を作っていけることがあると思っています。自分が楽器を続けていられたのも初心者の頃にペースを急かされなかったことが大きいと思っています。強権を振るって実現したい音楽性を追求するのはプロになってからやればよいのです(なれるもんなら)。相当なことがないかぎりは経験もほぼ対等なのだから、メンバーとコミュニケーションして音楽を作っていくことのほうが「一人の圧倒的なリーダーシップ(笑)」よりも意味があるハズです。

指揮台の上から発せられる発言は平台での発言よりもパワーを持って聞こえる魔法があります。(割と極端な例ですが)スタンフォード監獄実験ミルグラム実験などで知られている通り、普通の人が権威を与えられた途端に振る舞いが変わり、周囲の人はその「役割」に応じた行動を取るようになっていくことが知られています。これが指揮台の魔法の正体の一つです。特に音楽経験を背景に学生指揮にポジションに着いた人は、その魔法に身を乗っ取られないように気をつけなくてはなりません。なぜなら、一般に指揮者は楽団員の共通の敵とみなされることもあるのですから…。

指揮者・指導者の陥る「中二病

閑話休題

よく観測する話として、「指揮を見ろ」ということに関連して、「メトロノームなしで練習しろ」「楽譜を閉じて練習しろ/暗譜しろ」ということが叫ばれるのですが、だいたいの場合においてアンチパターンであり、あまりにもよく見られるので指揮者の中二病の一種であると言ってもよいと思います。

まずこういう指示が出されるときはメトロノーム通りにきっかり音が入っていないことのほうが大多数です。「テンポ変化への対応が鈍い」のか「単純に弾けてない」でいったら後者であることのほうが多く、その場合にはまずテンポ通りに弾けることが大前提になります。

また、突然暗譜を強制することは通常行わない情報処理を奏者に強いるので本来かかるはずでない脳の負荷がかかりテンポ通りに入れることをより困難にします。楽譜にかじりつくことがよくないのは事実ですが、弾けている人でも指揮は重要な部分を周辺視野で確認するもので、ガン見によって確認するものではありません。

共通することとしては、楽譜に書いてある音符が処理しきれていないためにテンポが合わないケースで「指揮を見ろ」というのは意味がなく、要所要所で指揮が確認できるくらいに音符の処理能力を上げるしかない、指揮者ができることは「どこで」指揮を見ろ、「どこで」合わせろ、のポイントを指示してあげることで「指揮を見ろ」ということではない、ということです。

「本番のテンポはいくつですか」

ついでに。これは割と賛否分かれそうですが、「本番のテンポはいくつ」「音源のテンポはいくつ」ということを気にしすぎるのはよくない、本番振る人以外での練習でコピーしようとしすぎるのはよくない部分があると思っています。テンポ変化への対応が鈍くなるため。


次回は実際にやった曲の話+αで終わる予定です。